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私の景観論

 わが国の高度成長期、重工業を主産業として都市を拡大、発展させてきた北九州市。しかし、その後の産業構造の変化は重工業の衰退をもたらし、深刻な公害問題も発生するなど負のイメージを強いられてきた。そのイメージからの脱却がまちづくりの原点になってきたともいえる。末吉興一市長は「きれいな空や海を取り戻すことから始め、景観に対する市民の関心も高まってきた」と語る。公害を克服し、世界の環境首都を標榜するまでになった北九州市の景観とまちづくりを聞いた。

◇     ◇

 市長に就任する前、奈良県明日香村で進められていた『明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法』(明日香法)の制定に側面から携わった。これが「景観を考える上で一番の経験になった」と振り返る。「当時は一定の地域や個体を見る意識が強かったが、明日香村では全体を考え、最終的に見える所すべてを特別保存地域にした」。その頃から全体を見る意識を持つようになり「景観は都市や地域の佇まい」と捉え「全体を把握して個々の色や構造のバランスをとることが重要だ」とする。

■全国初、県境を越えた関門景観条例
 その意識が強く現れたのが山口県下関市と共同で2001年に施行した関門景観条例。互いの都市や船から見た景観、海峡全体の景観を守ることを目的とし、全国で初めて県境を越えて結ばれた。

 合併前の八幡市歌に“焔炎々波涛を焦がし、煙濛々天に漲る”と歌われるほど工業都市としての発展を謳歌した北九州市。「そこには市民の誇りもあり、当時は景観や環境に関心を持てなかったのも無理はなかった」という。その後、重工業の衰退と公害問題などの浮上により、鉄冷え、斜陽都市という負のイメージがつきまとうようになった。

 「(イメージを)変えようとなったとき、まず公害対策から始まった。徐々にきれいな空、海、川を取り戻すにつれ、景観に対する市民の関心も高まってきた」。都心部・小倉を流れる紫川で景観整備と治水を並行して進める紫川マイタウン・マイリバー整備事業を1991年度からスタートした。「河川が汚れているから、きれいにすることには住民も協力的だ。しっかりとコミュニケーションをとり、調整しながら進めた」ことで、新しい都心のシンボルとして生まれ変わることに成功した。

 また、海峡と歴史を生かした門司港レトロ事業も住民が積極的に参加することで観光拠点として甦った。「紫川沿いの小倉城周辺や門司港レトロは水のある風景がいい」と、どちらも好きな景観のひとつに挙げる。

■一貫したアドバイスで景観を誘導
 「景観づくりの取り掛かりで一番気にかけたのは色。色の規制をどうするか」。そこで、景観アドバイザー制度を設け、色彩、デザイン、植栽などについて単に規制をかけるだけではなく、専門的な観点からアドバイスを行い、誘導する仕組みをつくった。「創設時からほぼ同じメンバーで、一貫したアドバイスをもらっている。小倉、黒崎、門司など各地区で基調の色が違う。土の色など地域に調和する色を頭に置いて、それに向かって一つずつやればいい」。大型再開発のリバーウオーク北九州もアドバイザーによる調整の成果で「事業者の協力を得ながら、こうした取り組みを長く続けてきたからこそ、市民に喜ばれるまで景観は良くなった」と大きな効果を上げている。

 景観緑3法の制定で「法律の裏付けができ、自信を持って取り組める」と意を強くする。門司港レトロ地区で壁のような大型マンション計画が浮上した時は「最後は形態を塔状にし、公共の展望施設とエレベーターを市が設置することで和解できたものの、法的拘束力がないため苦労した」。これからは実効性の高い規制・誘導を期待する一方で「あくまでも法律は与えられる道具と力。その枠内だけでいいものはできない。うまく活用することが大切だ」という。

 6月、市都市計画審議会に景観部会を設置した。世界の環境首都にふさわしい新たなマスタープランや景観計画を策定し、市民によるまちづくり活動を支援、育成していく。

2006年10月23日付『建設通信新聞』より

きれいな空や海から
世界の環境首都へ
北九州市長 末吉興一
かつての清澄さを取り戻した空・海・川。北九州市の都心・小倉を流れる紫川では、甦った清流が市民に憩いをもたらす
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