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私の景観論

 近江商人の発祥の地として知られる滋賀県近江八幡市は、景観法に基づく景観計画・水郷風景計画を全国に先駆けて施行したほか、風景づくり条例も制定している。「まちづくりには官も民もない」を信条とする川端五兵衞市長は「ここに骨を埋めてもいい風景をみんなで作ろう」というコンセプトのもと、「『死に甲斐のあるまち』である『終の栖』」をめざしている。その川端市長に、景観に対する方針や今後の展開を聞いた。

◇     ◇

 川端市長は「景観には街のイメージを変える、物凄いパワーがある」と話す。その好例として岡山県倉敷市をあげ、「コンビナートなどの重厚長大型産業を主な背景として成立してきたのにも関わらず、『倉敷』と聞けば、誰もが美観地区のことを頭に浮かべる。景観行政を進めるうえで、お手本になる」と評価している。

 ただ、そのまま手本とすると「オリジナリティーが失われ、いいとこ取りではポリシーがない」とし、検討、評価、再構築を繰り返すことで、より良いものにスパイラルアップさせていくことが基本的な姿勢だ。

 同市には、伝統的建造物群保存地区に残る商家のまちなみや八幡堀などの文化的景観、大正ロマンの息吹を感じさせるヴォーリズの洋風建造物など、さまざまな質の高い固有の文化がある。また、満々と水をたたえる琵琶湖に面し、緑映える山々や風にたなびくヨシの群生など、自然的景観にも富んでいる。

 こうした資産をもつ同市の風景への取り組みは、1960年代後半の近江八幡青年会議所(JC)の八幡堀(八幡川)の修景保存計画に端を発する。その当時、理事長として、「まちづくりには官も民もない。立場を離れ、利害を離れた精神」で、熱き想いを胸に奔走したのが、現在の川端市長だ。「生活排水を垂れ流した結果、見るも無残なドブ川・ゴミ捨て場に変貌してしまった」ため、堀は周辺住民から厄介者扱いされた。その結果、中央に狭い下水溝を残す改修に行政が着手し、多くの市民もこれを歓迎した。

■堀は埋めた瞬間から後悔が始まる
 しかし“堀は埋めた瞬間から後悔が始まる”というスローガンのもと、「八幡堀に新しい価値観を求める保存修景運動をJCが中心となって開始しました。当時では全国にも例のない市民主導のまちづくり運動で、まちづくりを考えるうえで八幡堀はアイデンティティーの源であり、美しい元の姿の八幡堀を取り戻そう」と、改修工事もストップさせる異例の事態を迎えることになる。

 将来のまちづくり構想の中に八幡堀の保存を位置付ける新しい運動の方向付けは、内外の多くの支持を得ることになり、やがて市民の意識改革につながり、「市民の心に『八幡堀はみんなのもの』という認識を不動のものにした。これによって、八幡人のパーソナリティーも復活させることができた」と振り返る。

 同市は明治時代の国鉄駅計画や、戦後の名神高速道路計画などに対し、防災・防犯や農業振興を理由にルート変更を求めた経緯があり、その結果として商家の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)や伝統的な農村風景が残った。これらの魅力ある風景を21世紀のまちづくりの中心に据えていくことになった。

 住んでみたい街づくりを実現するためにも、「誰もがいい街にするために、一度でもいいから貢献することを実践してもらいたい。これが『死に甲斐のあるまち』である『終の栖』という発想になる」と説く。

■市民とともに「風景生産の活動」を継続
 こうしたことを証明するかのように、景観法への対応も迅速だった。全国に先駆けて、景観計画である水郷風景計画を策定・施行したのを始め、風景づくり条例の制定など、積極的だ。また、八幡堀や水郷地帯が国の重要文化的景観の第1号に選定されるなど、これまでの活動の成果もあがり始めた。

 “まちなみはみんなのもの、風景はみんなのもの”を合言葉に、八幡堀修景事業から展開してきたまちづくりによって、市民が育んできた“風景は共有の財産”という想いが、こうした結果をもたらした。川端市長は、これを「誇りとし、まちづくりの一番大きな要素として、今後も市民とともに『風景の生産活動』を継続していきたい」と結んだ。

2006年2月20日付『建設通信新聞』より

官も民もないまちづくりで
ついすみか』を
近江八幡市長 川端五兵衞
近江八幡の歴史を伝える連続する水辺の風景である八幡堀(明治橋付近)は、国の重要文化的景観第1号に選定された
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