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私の景観論

 「白壁の町」で知られる倉敷美観地区の町並み保存の歩みは、昭和10年代にヨーロッパ視察から帰った倉敷絹織の故・大原總一郎が「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」と町並み保存を提唱し、倉敷市出身の建築家・浦辺鎮太郎らと町並み保存運動を始めたのがきっかけだった。人々の生活とともに400年前の町並みを今に伝える倉敷市の取り組みを古市健三市長に聞いた。

◇     ◇

 「ひと、輝くまち、倉敷」を基本姿勢に市政運営にあたる古市市長は景観の基本には『人づくり』があるという。「景観形成は市民にとって地域への愛着、郷土愛を育むものであり、その基本には人づくりがある。倉敷市には戦後間もなくから、市民が努力して町並みを守ってきたという歴史がある。その市民運動を受けて行政が条例をつくり、補助金制度をつくり、支援してきた」という。景観づくりの先駆者であり、1968年(昭和43年)9月30日に制定した倉敷市伝統美観保存条例の中で、「倉敷川畔美観地区」の名称が生まれた。

■住民調査実施し計画策定に着手
 「さまざまな活動をしてきた倉敷市にとって、景観法ができたということは、心強く感じている。この法律を活用して、すぐれた倉敷市の景観を残していきたい」と景観法の活用に意欲的だ。

 中核都市・倉敷市は既に景観行政団体であり、景観計画策定に着手した。現地調査、住民アンケートを実施し、市民や有識者を交えた審議会で協議を進めていく。7月1日には倉敷美観地区を景観法に則した景観地区に移行しており、今後景観計画策定の中で、景観計画区域を検討する。「美観地区以外にも景観地区にふさわしい地区もあるので、景観計画をつくる中で検討していく」予定だ。

 倉敷市は1967年、『昭和の大合併』で当時の児島市、玉島市、倉敷市の3市が合併し、倉敷市となった。「それぞれが独自の文化と歴史を持っていて、人々は美しい風景、美しい環境、美しい景観とともに生きていた」。合併の前は児島市に住んでいたという古市市長は「鷲羽山から見た瀬戸内の夕日、夕景は日本一、いや世界一。見た人でないと分からない」と自慢する。江戸時代に千石舟が出入していた港町として栄えた玉島は、生活がにじみ出た独自の風情を持つ。

 倉敷美観地区の歴史も約400年前、江戸幕府直轄の天領となり代官所が置かれ、以来270年に渡って繁栄を続けたことに起因する。その後明治に入り、稀有な実業家、大原孫三郎・總一郎父子が倉敷に「理想郷」を追い求めた話しは、あまりにも有名だ。

■今日の倉敷は住民の生きざま
 「風景は行政だけでは創っていけない。地域に住んでいる人と市民の理解がなければ創れない。景観を守り育てていくことは、きわめて大切だが、今日の倉敷の歴史・景観は住民の生きざまであり、まちづくりそのものだった」と過去を振り返る。倉敷市は古いまち並み、赤煉瓦の旧紡績所だけでなく、地域に根ざした伝統産業や巨大にコンビナートを含めた「産業にふれ、学び、体感する」パンフレット、倉敷産業観光ガイドを作っている。大原一族の業績をたどる倉敷美観地区、日本のジーンズ発祥の地・繊維のまち児島、江戸の港町と最新の港湾機能が調和する玉島、そして日本有数の水島コンビナートと、歴史・観光と産業の両面からPRする。

 「これからのまちづくりは、景観という宝物を確実に守り保存していくことと、それをどう活用し発展させていくのかを市民と相談しながら作っていく。その地域をどうしていくのか、町の将来をみんなで考えていきたい」と展望する。

 今年の10月14日から、倉敷美観地区で夜間照明が始まった。「これまでは昼の景観しかなかったが、これからは世界や日本中のお客様に夜の景観も楽しんでもらえる」と期待は膨らむ。エリアは、倉敷川河畔と倉敷アイビースクエア一体。点灯は毎日、日没から午後9時までで、今後は大原美術館などにも範囲を広げる計画だ。

2005年11月7日付『建設通信新聞』より

郷土愛育む景観
基本は「人づくり」
倉敷市長 古市健三氏
倉敷美観地区、中橋の風景。市は美観地区以外にも景観地区にふさわしい地区を今後検討していく
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